紙飛行機の降り立つ先に

思考メモ、雑記など

私の靴

 先々月、創作活動をしばらく休止することを決めた。

 

 仕事のストレスのせいか、体調はずっと下り坂で、年明けにとうとう閾値を超えてダウンしてしまい、事前に申し込んでいたイベント(文学フリマ京都)への参加も断念せざるを得なかった。
 参加を見送ることについて、ツイッタでお詫びをツイートしたら、数名の方が、いたわりの言葉をかけてくださった。まったく予想していなかったから、驚きと、ありがたさと嬉しさと、そして申し訳なさでいっぱいになった。私はまだ見限られていなかった、私の作品の需要はまだゼロになっていなかったのだ、と。


 それでも、仕事は休まなかった。休めなかった。どうして休めないのだろう? と思う。私が身を置く世界は、私に休むことを許さない。私自身さえ、私に休むことを許さない。休めている人たちが羨ましくてしかたがないのに、休める人は休めば良いと思うのに、私は「休まず勤勉に働く」という縛めから逃れることができない。

 

 2月、体調がいくらか落ち着いたので、少しだけスケートを再開してみることにした。

 スリージャンプ(ワルツジャンプ)は、7歳の私が跳んでいた半回転のジャンプで、当時教室で習えていた唯一のジャンプであり、いちばん楽しかったレッスンのひとつとして記憶に焼きついているものだった。

 おとなが対象のスケート教室に、通ってみることにした。インストラクタの方と面談して、今の私がどこまでできるか伝えたところ、ステップやジャンプが中心の、いちばん上のクラスに入れてもらえることになった。
 そこで私は、初めてシングルのトゥループジャンプを習った。1回転。7歳の私が跳べなかったジャンプだ。
 数週間後、私は、ひとつのハードルを越えることができた。

 スケートを再開するにあたり、私は、白いスケート靴を買った。スケート教室初級から中級者向けと案内されている、そこまで高価ではない靴だ。東京のイベントに参加するよりも安い。そう、「そこまで高価ではない」、「今の私の給料なら買える」靴。それでもこれは、7歳の私が憧れ、切望し、そしてとうとう買ってもらえなかったもの。私は、7歳の私に贈る気持ちで、これを買い、滑った。

 こどもの私が叶えられなかったことを、おとなの私が叶えていく。「おとなの私」は、「こどもの私」のアヴァタのような心地でいた。けれど、トゥループジャンプを跳べるようになって、7歳の私を越えたと自覚したとき、私の心は動いた。「この白い靴は、7歳の私の靴じゃない。今の私の靴だ」と。

 

 スケートを再開したことで、スケートについてツイートすることが増えた。私のフォロワは、ほとんどが創作関係の方々だと思う。だからスケートに関するツイートは、フォロワの方たちにとっては別段興味がない、需要のないものだと思う。私は「フォロー返し」というものをしていない。だから私のフォロワは、私に対して何の義理も負っていない。私が需要を満たさなくなれば(私のツイートが、彼らにとってつまらないものになれば)、彼らはいつでも私を切ることができる。私という存在は、いつでも見限られ、見捨てられるものだ。
 必要のないものは切り捨てられる、需要を満たせないものは見向きもされなくなる。私が身を置く世界は、そういう世界で、それは多分これからも変わることはないだろう。とてもシンプルで、合理的だ。
 働くことも、そうだ。働くこと以外のすべてを、世界は私から削ぎ落としにかかる。会社勤め以外の何かをしようとすれば、睡眠時間を、ひいては健康を犠牲にしなければならない。まるで、働く以外に生きることを望んだ罰みたいに。
 以前は、そのことについて、悲嘆し、諦観するばかりだった。けれど最近は、少し、その先を思う。「そうまでして、生きていたいのか?」、「そんな世界は、生きるに値するものなのか?」。

――私の靴は、誰の靴なのだ?

 自分の人生というものをイメージしたとき、私に浮かぶのは、「端から崩れていく崖を、首に縄をかけられた状態で、ひたすらに登りつづけていく」という映像だ。足を止めたり、登る速度が崩れる速度に追いつかなくなれば、転落して縊死する。私は足を止めなかった。休憩もとらずに登りつづけてきた。

――足に合わない靴を履いて。

 靴は本来、足を守るものであるはずなのに、私が履いている靴は、私の足に合わない、とても窮屈な靴だ。一歩を踏みしめる度に、私の足を痛めつける靴だ。

――そんな靴を、いつまで履きつづけるのだ?

 いっそ裸足になりたい。
 靴をなくしては、私の足はずたずたになって、崖を登ることはできないかもしれない。それでも、最初の数歩だけでも、開放感を享受することができるなら、その後すぐに落ちて縊死したとしても本望じゃないか。いずれ力尽きて死ぬ結末が変わらないのなら、さいごに少しだけ救いがあるほうが、ずっとましじゃないか。

――違う。ほんとうの望みを言ってしまえ。

 私は、私の靴がほしい。
 白いこども用のスケート靴でも、黒いおとな用のヒール靴でもない、私の靴を履きたい。
 そうして、いつか、崖を登りきって。
 首にかけられた縄を解いて。
 広がる世界を見晴るかして。
 いきたい場所へ歩いていって。
 自由になった両手で、物語を書きたい。

――どうすれば、私は私の靴を履ける?

 与えられないなら、自分で手に入れる。私のスケート靴のように。
 存在しないなら、自分で創り出す。私の物語のように。

 私は、私の靴を、希求している。