紙飛行機の降り立つ先に

思考メモ、雑記など

わたしのなまえ

 名前を書き留められることの多い仕事だ。
 電話では必ず最後に名前を復唱され(時には姓だけでは満足されず「下の名前は?」とまで訊かれることもある)、応接ブースでは私の名刺が渡ってゆく。
 何十人、何百人。撒いた名刺が千を超える日も遠くはない。
 可笑しい、という感覚を抱き始めたのはいつからだろう。
 電話で書き留められ、あるいは懐に収められていく私の名刺に書かれているのは、たしかに私の本名なのに、そこに《私》は存在しない。着たくもない服を纏い、したくもない薄化粧を施し、愛想笑いで繕った、「社会人」という、私の抜け殻だ。私の意志も、望みも、宿っていない。私のかたちをした、けれど《私》ではない、空っぽの張り子のような不気味な何かだ。
 私の本名は、今はもう《私》をあらわさない。仕事のために存在する比重を増しすぎた私の本名は、今や「社会人」という消耗品につけられたロット番号に等しい。
 仕事用の名前があれば良いのにと、思ったこともある。仕事の私と、プライベートの私は、もはや別の人間になり果てているのだから。仕事で使う名前と、プライベートで使う名前を、分けられたら良いのにと。
 だからだろうか、プライベートで本名を呼ばれると、違和感を覚えるようになった。条件反射で「社会人」の演技が、擬態が、発動して、返事にタイムラグが生じるようになった。たしかに私の本名なのに、《私》が呼ばれている感じがしない。私の本名は、もう《私》に認識されない。
 これは深刻なエラーだろうか。だとしても、デバッグの方法は知らない。